〒カワチ日手紙〒- 外 -

「あえて」以降の、生きる仕方の試みの記録。「父」像、「家族」像への試み。文中に出てくるCは妻で、五部林は息子です。

さみしさをつくり出す理由

 きょうで、2月も最終日。

 昨夜(ゆうべ)は、玄侑宗久慈悲をめぐる心象スケッチ (講談社文庫)』を読み進めたり、引き続き「Hulu」で「LOST」(シーズン2)の第4・5話を見て、2時頃就寝。
 『慈悲をめぐる~』で、著者は、慈悲は「自己犠牲とはけっして目指してはいけないもの」と述べ、また、

どんな言葉も溶暗した状態であり、いかなる行動にも還元できない心の在り方としてスケッチされなくてはならない。そうしないと、簡単に献身、いや自虐さえも孕んでしまうのだと思う。

 とも述べており、ぼくは、慈悲とは究極の「自己犠牲」「献身」だと思っていたので、刺激を受けた。
 仏教(法華経)などの解説文も多く、なかなか入り込めない文章も多いのだが、たぶん、もう少しで宮澤賢治との文学・生き方との関連が話題になってくると思うので、読み進めたい。

LOST シーズン2 COMPLETE BOX [DVD]

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慈悲をめぐる心象スケッチ (講談社文庫)

慈悲をめぐる心象スケッチ (講談社文庫)

 今朝、8時に起床。Cにメール。
 薬(「サインバルタ」30mg×2錠)を飲み、数日ぶりに入浴。
 昨夜(ゆうべ)から行っていた、DVDレコーダー(DMR-BW730)に録り溜めてあった番組をブルーレイディスクに保存する作業のつづき(DVDレコーダーが古い機種のためか、1倍速でしか行えず、すごく時間がかかる)をしたり、昨日から検討していた、PCの記録ドライブをブルーレイに対応させるための機種探しして、結局、パイオニア製のBDR-208JBKをAmazonで注文、それから、今、使ってるものが壊れたので(一切音が出なくなった)、LOGICOOL製のステレオスピーカー 、ほんでもって、Seagate内蔵型増設HDD(2.0TB)も勢いで購入。
 まったく何やってるんだか、じぶんでもほんとうにわからない。

 facebookのタイムラインを眺めていたら、JR西日本のプリ―ペーパー「旅こよみ」が今月(来月?)号(3月号)で休刊することをCの投稿で知る。京阪神エルマガジン社企画編集の「旅こよみ」は、神戸新聞購読者に配布される「奥様手帳」(Cの実家でときどき読ませてもらう)とともに、写真や構成がすばらしかったのに。残念。予算の問題なのかな。

LOGICOOL ステレオスピーカー Z120BW

LOGICOOL ステレオスピーカー Z120BW

 12時すぎに家を出て、K病院への通院。
 13時からの診察予約だったけれど、12時半すぎに着いたので、受付で診察券だけ提出して、病院の中庭でぼんやり。暖かい陽射し。
 自宅から病院までの数十分の道のり(徒歩)は、やっぱりまだ緊張する。きっと、車や原付での外出は、それほど抵抗なく行えるのだけど、「誰か知ってる人と会ってしまうかもしれない」徒歩での外出は、まだドキドキするが、以前ほどではなくなった。
 原付(リトルカブ)は数週間前パンクしたまま、まだそのまま放置してあるので、「なんとかしないと」とは思うものの、購入からメンテナンスまでお世話になっていたお店(Motoretta)まで、原付を押して歩いていくにはかなり遠いし、かといって、初見の近くのバイク屋に持って行っていいものかどうか(いや、たぶん全然大丈夫だとは思うのだけど)、それを確認するためのお店への電話が緊張してできない。

 これまで、ぼくは何度か精神科に通ったことがあるけれど、いつも「クリニック」というか、小さな開業医の病院にしか行ったことがなかったので、入院設備もある大きなK病院に来ると、いつも少し気おくれしてしまう。今の住居に越してきたときは、K病院は総合病院だとばかり思っていたが、精神科の専門病院だったことを、今回、病院探しをしていて初めて知った。
 12:45に待合室へ。待合室のテレビでは、連ドラ「純と愛」が流れていた。この作品、脚本が遊川和彦だから、ずっと気になっているけれど、結局、ろくに1話も見たことがない。
 13時前から診察。I先生からの「最近どうですか?」との質問に、「気分は良くなってきており、その状態を保つことができていると思います」と答える。睡眠もとれている、外出も少しはできるようになった、続けて、妻や妻の実家、子どもは協力してくれて、ぼくをゆっくり過ごさせてくれている、とも言った。
 先生は、「初めての診察が1/18だったので、もう1ヶ月と10日になりますね。そろそろ薬が効いてきて、気分が軽くなってきたようですね。順調だと思います。ただ、まだまだ安心しきらずに、ゆっくり過ごすことを考えてください。回復までには早くても3ヵ月はかかると思います」と言って、さらに「こんなに協力してもらえて、いい奥さんを持ちましたね。もう少し、協力してもらってください」とCを褒め、「では、次回の診察日はいつにしましょうか? 回復傾向にあるので、1ヶ月後にしますか?」と言われたけれど、ぼくは「ちょっと、やっぱり、まだ心配なところもあるので、2週間後でお願いします」と答えた。次回は、3/14、13時~の診察になった。そうして、10分ほどの診察終了。
 診察+薬代(3,320円)を受付で払って、薬(前回と同じ、サインバルタとノイクロニック、14日分)をもらって、厚着してきたせいで、少し暑いぐらいの陽射しのなか、デイリーヤマザキでシュークリームとタバコを買いに寄って、また歩いて帰宅。

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 2月という月日は、ほんとうに瞬く間に過ぎていった。
 1月がまさに終わろうとしているその夜から、この日手紙を再開し始めて、ほとんど毎日書いていた。書き続けることができた。それだけは、なんとかじぶんを褒めてやりたいと思うし、その書く行為が、ぼくを少しずつ回復に向けて背中を押してくれたと思う。ぼくは、やはり、書かなければダメなんではないか、どんなにみすぼらしい日々であっても、それを書くことがじぶんを「納得させる」(振り返って、落ち着かせる)行為につながるんではないか、と、改めて思う。

 書き始めた2月初旬は、これまで社会や他者とつながるためにやってきたじぶんの「ツール」(「あえて」という)が、もう通用しなくなってること、「あえて」は、結局、外部に開かれたじぶんをつくることはできず、「安全なじぶん」の領域をを守ったうえでのツールだったことに愕然としつつ、且つ、父親になれない・なりたくない自覚、それと家族というものに対する恐怖も目の前に大きくのしかかっていた。
 前者(「あえて」に代わるツール)については、もちろん、まだこうして、「うつ」の真っ最中であり、生きる実践のなかで探していくしかないものであるから、模索中といえる。けれど、後者(父親になりたくない・家族って何?)については、少しずつではあるが、その恐れは和らいできているようにも思う。
 それは、ドラマや映画、小説、それからエッセイなどと触れた範囲でしかないが、誰もがみんな「父親になること」「家族をつくること」について戸惑い、恐れていることがわかり、それは、生活を営みながら、各々が見出していくしかない、ということが、自覚できつつあるからだと思う。もちろん、以前からも、「父親になること」「家族をつくること」が、そういう種類のものだということは、頭ではわかっていたけれど、なかなかぼく自身が納得ができるものとして、腑に落ちていなかった。
 とても単純な話ではあるけれど、こうして、週の半分ほどをひとりで過ごしていると、息子のことを思い出し、愛おしくなり、また会いたい、いっしょに遊びたい、と思えるようになったし、妻のことを思うと、こんなぼくといっしょにいてくれることを選び、ぼくの「うつ」からの回復に協力してくれていることを感謝し、またそういう行為の有無とは関係なく、彼女との何気ないことばのやりとりに安心とユーモアを感じられ、これは、おそらく他の誰かではダメで、もう(残念ながら?)「恋愛」というようなものではない気がするけれど、唯一無二の存在であることは確かだと、やっと思えるようになってきており、そのCと五部林でつくる「家族」なら、ぼくの理想やら夢想やら納得とか、そういうものとは別に、築き上げていくことは、もしかしたら、とても楽しい作業なのかもしれない、そう思えてきた。

 まったく、関係のない話になるかもしれないが、ぼくという人間のキーワードは、どうやら「さみしさ」にある、ということは、以前から薄々気づきつつあったことだ。
 そのことについて、以前、日手紙でも書いたことがあるようにも思う。
 ぼくは、(母子家庭、あるいは、女系家族、そして「ひとりっ子」という)育った環境からか、強烈に好きになった初恋が成就しなかったためか、それとも生まれ持った性格か、もっと別のものなのか、原因はよくわからないが、ともかく、「さみしい」という気持ち、「人恋しい」という気持ちが、おそらく他の人より何倍も強い。
 しかし、逆に、というか、だからこそ、なのだが、「さみしい」と思わなくするために「ひとりでいること」を恐れず、「ひとりでいること」に慣れ、「ひとりでいること」を好きになるようにじぶんを仕向けてきて、おそらくそれには成功した。
 ぼくは、10代のころ、まだ「ひとり好き」作戦を決行する準備段階にあった頃、本や映画や音楽といったものが、「さみしさ」をひととき忘れさせてくれる、また想像の世界では、じぶんの思うように人と繋がることができるということを体験し、「ひとり好き」作戦を決行とともに、まず、現実の社会や他者と関わるよりも、想像の世界にじぶんを置いたが、その体験とともに、やはり(さみしいので)現実でも、他者を求め、想像の世界で体験したことが助けともなり、実を結んだこともあった。もちろん、実を結ばなかったことの方が多く、実を結んだとしてもすぐに破綻して、その度に泣き崩れていた。だから、破綻したときの予防策として、必ず「ひとり好き」のじぶんを保護しておく必要はあった。
 じぶんの「生きる仕方」をかたちづくる10~20代にかけて、他者を求めながらも「ひとり好き」作戦を決行するというアンビバレントな状態にあったが、「ひとり好き」のじぶんを保護する方法にも長けてきて、これは、最近、感じたことなのだけれど、ある側面からみると、この度々再発症する、ぼくの「うつ」状態(あるいは「引きこもり」状態)というのは、「ひとり好き」のじぶんを保護するための方法、つまり、「さみしさ」をじぶんからつくりだそうとしている、ぼくの内なる防御反応なのかもしれない、そんなふうに思う。
 もちろん、その時々によって、社会や他者との軋轢に疲れて、あるいは現実的に心身ともに疲弊して発症する、ということもあっただろう。けれど、社会や他者との軋轢というのは、「じぶん」が納得できないから、じぶんの生きる仕方としてほとんど唯一の方法として納得できている「ひとりでいること」を汚されたと感じるから生じるものだというようにも思える。
 ぼくは、日々の生活において、立ち行かないこと、じぶんの生きる仕方でそれを解決する技術を持ち得ていないことが起こると、ぼくは防御反応として、唯一の方法として納得できている「ひとりでいること」を選び、そして、「うつ」になり、引きこもり、「ひとりでいること」に成功し、「さみしさ」を得て、その慣れ親しんだ「さみしさ」とともに過ごすことを選択しているのではないか。

 ぼくは、この日手紙を再開しようかと思い出した頃(記録をみると「41日前」とあったから、去年の年末)、「はてなブログ」のiPhoneアプリにメモのようなものを残していて、それは、次のような文章だ。

さみしさをつくるために、人と会いたくない。人と会いたくないのではなくて、さみしさをつくりだし、そして本を読む時間をつくりだしているのかも。

 これは、まだ「うつ」がそれほどひどくなっていなかった頃のものであり、ともかくその時期は「ひとりで本を読む」という時間がほしくて仕方がなかった頃だ。もちろん、その「本」というのは、象徴であって、映画でも、こうして何かを書くことでも、とにかく「ひとりでじぶんに向き合う行為」ということだ。
 「さみしさをつくりださなければいけない」と書いているぼくは、人と会いたくないのではなく、「さみしさ」を強制的につくることが、ぼくのなかでは、じぶんと向き合える方法だと考えていたし、今もそう考えているように思う。

 ただ、10~20代前半の頃の心底から飢えて他者(の理解と融合)を求めている「さみしさ」とは違い、今の「さみしさ」というのは、ある「安心」に基づき支えられている。それは、もちろん、Cの存在である。結婚しているから、とか、いっしょに住んでいるから、とか、そういう目に見えた安心の関係があり、目に見えるものだけではなく、今もこうしてぼくを献身的に支えてくれている彼女の存在があることは、ぼくは、もう「さみしい」と思わなくてもいい、いや、これで「さみしい」と思うなんて贅沢だ、変だ、と考えて当然*1で、これも、以前、日手紙で書いたことがあるように思うけれど、それを証拠に、結婚し、「さみしく」なくなったぼくは、仕事で忙しくて時間がなかったなどの外部要因は少しあるとしても、本をほとんど読まなくなった。「さみしく」ないから、ぼくは、もう想像の世界に入る必要がなくなったように思っていた。
 そのことに気づいたときは、ぼくは、とても動揺した。ぼくが、読書好きである、ということは、自他ともに認めるぼくの趣味(アイデンティティ)だったし、それが、「さみしく」なくなってしまうと無くなるものでしかない、単なる「さみしさ」の埋め合わせでしかなかったのか、と思ったからで、けれども逆に、ぼくは、ずっと「さみしさ」から逃れよう、と身を捧げて生きてきたのだから、それが解消されたことは、ぼくにとって何より素晴らしいことに他ならない、読書なんて必要ないのなら、それでもいいとも思った*2

 また、この「さみしさ」というのは、先程述べた「あえて」という、ここ10年ぐらい培ってきた、ぼくの外部(社会・他者)と関わるための「ツール」とも関連していて、簡単にいえば、ぼくは「ひとりでいる」(さみしい)ことが基本だけれど、「あえて」外部と関わってみることで、もしかしたら、「ひとりでいる」(さみしい)ことのほかのぼくのあり方が生まれるかもしれない、というもの。
 ぼくは、ここ10年、「あえて」という「ツール」を使って、外部と関わろうとし、その結果、ある手応えのようなものは得た。けれど、やはり、「いつでも帰れる場所=ひとりでいること=さみしい」を残していた。

 ただ、もう、ぼくは、この「さみしさ」、あるいは「あえて」という「ツール」を卒業するべき段階に来ているように思う。過去の圧倒的な「さみしさ」の悲劇の経験が、未来に訪れるかもしれない「さみしさ」を既定して、どうしようもなくぼくを恐れさせるけれど、それはもう訪れたときに悲劇を悲劇として受けとめるしかないと思うようにし、「あえて」外部と関わることをやめて、正面から関わり、失敗を繰り返すこと、これもまた悲劇の体験を積むことでしか、外部(社会・他者)と関わることが、より、ぼくの理想とする外部との関わりであり、そのことがまた「さみしさ」の解消にもつながる。
 今のぼくには、「ひとりでいること」のほかに、じぶんの生きる仕方を見つけることが求められている。それは、ぼくがやっとつかんだ唯一無二の生きる仕方であるので、それを手放すことはとても心細いけれど、徐々にでもいいから、「さみしさ」を「さみしさ」として経験することができて初めて、その逆の、ぼくがずっと求めている他者とのつながりも生まれるのだろうし、もっと、身軽になれるようにも思う。それでも、ぼくには「じぶんと向き合う時間・行為」はやはり必要なものであるようには思うので、それを直接的に「ひとりでいること」に結び付けるのではなく、また、「ひとりでいること」が「じぶんを守る・安全にする」ことの象徴としてではなく、単に「ひとりでいる」行為になるといい。

 みうらじゅんさよなら私 (角川文庫)』は、これもまた仏教的な「無私」を基本に、著者の独特の文体によって書かれているエッセイだが、「淋しくならない努力」と題されたエッセイは、「結局は他人との関係性でしか己を確認できないのが人間なので淋しさからは逃れられません」という文章があり、最後は、

 淋しさから逃れる方法は2つです。淋しくならないように努力するか、淋しさに慣れるしかありません。
 最終的にはひとりぼっちで死んでいくわけですから、それの予行演習として淋しさを受け入れていくのです。
 安心していいことは、人はみな淋しいということ。
 それでも他人がやたら楽しそうに見え、うらやましいと思うときは、淋しくならない努力を怠っていると反省すべきです。

 ぼくは、この2つの逃れる方法のうち、「淋しさに慣れる」ことばかりに時間を費やしてきて、それはそれで仕方のなかったことだと思う反面、単純だけれど、これからは「淋しくならないように努力する」ことをしていきたい。

 またこの文章を読み返していて思い出したけど、ぼくという人間のキーワードは「さみしさ」の他にもうひとつ、「嫉妬(ジェラシー)」というものもあるな、と思った。ぼくは、他のみんなが「やたら楽しそうに見え、うらやましいと思うとき」が多い。
 じぶんが、その場、そのときに分相応であるか不相応であるかがとても気になる。きちんとそれをわきまえたうえで、おとなしくしているのでもいいし、無茶をやってしまうのでもいい、そうあらねばならない、そうでなく、行動してしまうことは、「カッコ悪い」と思っている。
 そういう意味では、やっぱり、ぼくも「他人との関係性」にしか「じぶん」なんてない。
 ほんとうはそんなものないとわかっているのに「あるべき理想(例えば、父親像とか家族像)」を求めてしまうのは、他のみんながきちんとそれを持っているように思えて、それに「嫉妬」している。
 「嫉妬」についての、ぼくの考えは、また別の機会に書こう。

 夜になって、仕事帰りのCから「『青春18きっぷ』を買ったよ。通常は、2,800円かかる往復運賃が、2,200円でいける」と、メールが届いた。
 もうそんな季節か、と思うとともに、毎日、そんなに電車賃がかかってたんだ、と思った。

 20時すぎに、ゆうパックで、午前中注文したパイオニア製のPCの記録ドライブBDR-208JBK、それから、LOGICOOL製のステレオスピーカー 、ほんでもって、Seagate内蔵型増設HDD(2.0TB)が届く。
 記録ドライブ、ステレオスピーカーともになんとか設置できたけど、HDDは、インチネジとSATAケーブルが必要だったようで、また追加注文。
 記録ドライブ、きちんと認識はしてるんだけど、昨夜(ゆうべ)から行っていた、DVDレコーダーからブルーレイディスクに保存した番組が見れない。ファイナライズとかの問題かな、ほんと、いろいろとよくわからないや。

 さよなら、2月。

SANWA SUPPLY TK-P1 DOS/V組立パーツセット

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SANWA SUPPLY 下L型シリアルATA3ケーブル 0.5m TK-SATA3-05SL

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*1:ただ、ぼくは、もしかすると(いや、遠い将来を思うと、死というものがあるから確実に)未来に待ち受けているかもしれない彼女の存在の喪失を思い、恐れてはいて、その防御のために「ひとりでいること」の鍛練は欠かせないと考えている

*2:このことは、年末のドーキョーへのひとり旅で、Aくんにも話した。このことを誰かに直接話したのは、そのときが初めてだったように思う