〒カワチ日手紙〒- 外 -

「あえて」以降の、生きる仕方の試みの記録。「父」像、「家族」像への試み。文中に出てくるCは妻で、五部林は息子です。

『あえて』というツール

 昨日(1/31)というか、今朝というか、結局、眠りについたのは朝6時前で、昼夜逆転の典型的な生活になってしまうのは、避けたかったから目覚ましを10時にセットして、とりあえず目を覚ますことができた。目覚めてから、部屋のカーテンを開けることもせずに、とりあえずパンを齧り、朝食後に飲まなければいけない「サインバルタ」を服用し、先日、TSUTAYAで借りてきたスティーブン・ダルドリー監督『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を見た。
 この映画は、題名からして、映画公開時からとても気になっていた。たしか、公開は去年の冬だったと思う。「9・11」とそれにまつわる父子の物語、だというよう大まかなあらすじは知っていたけれど、その時期は、仕事の方も忙しく、また、息子が夏に生まれてまだ数カ月、といったこともあって見に行けずにいた。気になっていたので、ジョナサン・サフラン・フォアの分厚い原作だけは手に入れたけれど、もちろん読むこともなく、さっき探したら和室の洋服ダンスの上に、積み上げられているほかの数十冊の本のいちばん下にあった。
 理由もなく奪われた父との生活、そして、夫を失った母、息子を失った祖父母との関係。オスカー少年が、自己の安定化を保つ道具であるタンバリンを片手に鳴らしながら、ニューヨーク街を早足で歩き回る姿、そして、その風景がとても良かった。何より印象深かったのは、過去に「父親になるのが怖かった」と妻(祖母)と子(父)を捨てた祖父(最初は、祖母の家に住む「間借り人(Renter)」として登場する)の存在と、その祖父を演じるマックス・フォン・シドーの演技で、理由があって口の利けない彼とオスカー少年との対話のシーンは、とても重く残っている。
 父そして夫を喪った後、なぜ喪われたのかという意味を、オスカー少年は父が遺した「鍵」の扉を探す“旅”に出ることで時間を費やす反面、その喪の時間をぼんやりと過ごす母に対して、息子は投げつけるように言う、「(ぼくにとって、ママは)法律でいう“不在”、いないのと同じだ」と。そのシーンもすごく印象に残った。まるで、今のぼくに言われたように感じたからだ。
 そして、DVDを見終えた後、テレビ「ひるおび!」でAKB48の誰それが丸坊主になったYoutubeの映像*1を気味悪く思いながら、眠気に耐えきれず、寝てしまう。
 目覚めたら、18時すぎで、がっかり。また昼夜逆転になってしまった。

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 いま、思い返してみると、去年末、というか、ぼくの「うつ(鬱)」状態が深刻化し始めていたのは、去年の12月の半ばからだったと思う。
 そして、クリスマス前にせっかくCがぼくにクリスマスプレゼントとしてくれた「ひとりの時間」を使って、出かけたトーキョーへの3泊4日の一人旅の時間(非日常)が、ぼくの日常を照らし返してしまい(当初は、ほとんどひとりで過ごす予定だったのだけれど、多くの、懐かしい人と会って、とても長い時間、日常では離せないようなことを話した)、『なぜこんな毎日を送っているのかわからない・じぶんで納得がいかない』ことがじぶんのなかで決定的に自覚されてしまったのだと思う。
 24日、クリスマス・イヴの夜に、自宅(日常)に帰ってきたときは、マンションの内にある公園で、「また、ここでも毎日が再開するんだ」と、マンションを見上げながら、足がすくんだことを覚えている。それから、エレベーターを昇り、玄関の扉を開けて、数日ぶりにCと五部林の姿を見たときは、正直、久しぶりに会えてうれしい、というよりは、とても「さみしかった」。その夜は、事前にネットで買ったり(木製のうさぎの乗り物)、また、トーキョーの京王百貨店でも買って持って帰ってきたいくつかのクリスマスプレゼント(バスのおもちゃや、ままごとセットなど)を開けて五部林と遊んだり、CにもLUMINE新宿で買ったセーターをプレゼントしたり、Cからも洋服をもらったりしながら、Cが手づくりしてくれた夕食(ピザなど)を食べたり、その後、大阪駅に去年オープンしたエキマルシェ大阪で買ったクリスマスケーキを五部林が寝てから*2食べたりしていたのだけど、もう、そのときから、ぼくは「心ここにあらず」で、まったく気持ちが着いて来ておらず、楽しいフリはしていたけれど、なんの感想もなかった。たぶん、Cも気づいていたと思う。そして、たぶん、五部林も。
 その日から、少しずつ、Cや五部林にとって、ぼくの“不在”は始まり、ぼくは「こんなことではだめだ、ぼくの役割は『主夫』であり、父であり、夫であるのだから」と自己嫌悪に陥りながらも、日中、五部林と過ごす時間も、テレビを見ながらぼんやりとし、ほとんど構ってやらず、家事もおろそかになっていき、まるでじぶんがこの家にいる理由などないように思え、ほんとうに「間借り人(Renter)」のように思えてきながら、Cが年末年始の休みに入り、忙しく大掃除などをする傍らで、ぼくは一日中寝ている生活を過ごし、Cに「私には休みはないの!」と怒られながら、そのまま年末を迎え、大晦日にCの実家に帰省した。
 大晦日の夜、夕食後、Cと五部林が風呂に入ってる間、義母に「主夫生活はどう?」というようなことを訊かれたとき、ぼくは「もう限界です。やっぱり五部林を保育所に預けようかとも思ってます」と半ば冗談交じりに答え、話していたけれど、限りなく本心だったように思う。
 そのまま年を越え、元旦は、義父や義母と初詣に行ったりもしたけれど、居心地が悪く「もう少しゆっくりしていけば」とみんなに言われつつも、ともかく「ひとり」になりたくて自宅に戻ろうと、Cに網干駅まで送ってもらう車中で、「おかあさんから聞いたんやけど、五部林を保育所に預けたいって?」と言われ、ドキリとした。Cにその話は、この春からの可能性のひとつとして少し話をしていたことはあったけれど、直接「五部林を保育所に預けたい」と彼女に言ったことはなかったからだ。「帰ったら、ゆっくり話をしよう」と言われ、ぼくは頷くしかなかった。

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 Cと話をすること。このことは、今もまだできないでいる。
 年が明けて、ぼくの「うつ」状態がますます深刻化するとともに、今年度(2013年度)の市への保育所の入所申込が1月末までだったこともあって、少しは話し合ったけれど、それもただ現実的な話(書類は何が必要だとか、保育所の見学に行く日時*3だとか、一時保育の預け先だとか)だけで、ほんとは、もっとぼくのいろんな感情について、Cと話さなければならない、聞いてもらわなければならない、聞いてほしいことがたくさんあるように思うのに、整理がつかないとか、なんとかじぶんで言い訳をしながら、まったく話せていない。
 実は、ぼくの(または、我が家の)、いまの状態の、ほんとうの問題の核心はこのことだとも思う。
 どこまで遡ればいいのかわからないけれど、少なくともCと付き合い始めて結婚し、同居するまで(2004年頃~2008年8月)は、他愛のないことを含めて、会えばもっと話していたように思うし、その後、母が亡くなり(2009年6月)、鶴見区市営住宅から、母の住んでいた今のマンションに引っ越し(2010年7月)、それからだんだんと仕事が忙しくなって現実的にふたりで話す時間がなくなっていったのはこの頃だったと思うけど、Cの妊娠がわかった(2010年11月)こともあって、まだまだ話すことも多かったし*4、それから年が明け、相変わらず仕事が忙しく深夜帰りの日々が続くなかでも、目に見えてCのお腹は大きくなっていき、出産準備みたいなことも少しずつ始め*5、Cがくれた父になる直前の2泊3日の「父へなる旅(石川・能登方面へ)」(2011年6月)を経て、息子・五部林の誕生(2011年7月)となった。

 この「父へなる旅」も、なぜ能登へ行ったかというのは、20年前、ぼくが10代後半に初めて一人旅をしたのが能登であったからだけど、なぜ20年前その場所を一人旅の場所に選んだかというのは、宮本輝幻の光 (新潮文庫)』を読んだのがきっかけで、ぼくは当時、不登校(引きこもり)から高校中退を経験し*6、ぼくの「うつ」歴の最初だった時期で、『幻の光』という作品は、夫が理由もなく妻と幼い子ども遺して自殺してしまい、遺された妻子の次の嫁ぎ先が能登であり、能登で過ごす妻が過去と現在を行き来しながらモノローグするという内容で、旅に際して「自殺」を念頭に置いていなかったかといえば嘘になり、もちろん、そんな勇気もなく戻ってきたのだけれど、20年経ち、父親になろうとしている人間が、夫が理由もなく妻と幼い子ども遺して自殺してしまう作品の舞台である能登を旅先として選択するのには、不釣り合い、というか、Cにどう説明したら良いか迷って、結局は簡単に「20年前に一人旅に行ったところだから」と「隠し」たけれど、ぼくは、20年前に能登への一人旅という経験のなかで、引きこもり生活から抜け出すきっかけを見出したような気もしていて(それまでのじぶんを殺して)、だから、「父親になるのが怖い」とずーっと思い続けていたじぶんに対し、今回も、父親になる前に、これまでのじぶんを殺す必要性を感じていたこともあって、その象徴として能登という場所をかなり自覚的に選んだ。
 2泊3日の旅のなかでは、20年前泊まった国民宿舎はもう営業していなかったけれど、当時のまま残っていたホテルの建物を目にすることができたり、自殺を考えながら一人歩いた能登半島の先端にある禄剛崎の断崖を歩いたり、映画『幻の光 [DVD]』の舞台となった村落を訪ねて迷っていたときに、作品の監督である是枝裕和さんからロケ地をTwitterを通して教えてもらえ、そのツイートのやりとりを見ていた見知らぬ人との交流が生まれたり、そういう経験をしながら、この20年を思い、ある程度の「じぶん殺し」というか、「父になる覚悟」のようなものができたように思え、きっとその旅を経験していなければ、もっと強い恐れのなかで我が子の誕生を迎えていたようには思うけれど、今、思うと、残念ながら、その経験は、我が子の「誕生」という瞬間に対しては役立ったものの、本番である、今に至るそこからの育児、というか、「父親になるのが怖い」という根強い恐怖は払拭できなかった。

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 話を戻そう。
 息子が誕生した一昨年の7月。そこからは毎日が怒涛の日々、考えている余裕もなく、初めての育児に困惑しながらもCとともに過ごし、圧倒的な対象(息子・五部林)を前にし、そして仕事もまだまだ忙しく、内面の何を話すこともできないのは当然としても、仕事の日は深夜に帰って眠り、休日はCが疲れているだろうと五部林と積極的に関わるようにし、「ひとりの時間」なんてもちろん持てずに、疲れが溜まってきてているとは自覚しながらもどうしようもなく、ただ、それと並行して、その年末に仕事を退職することを本格的に決意し、上司にも伝えているから*7、あまり思い出せないのだけど、Cとはその後の生活についてなど、少しは話していたのだろうと思う。
 そして、2012年が明け、3月になり、ぼくの「ひとりになりたい」という思いが爆発し、車でTSUTAYAに返却しに行った夜、家に帰らないことを決め、マンガ喫茶でひと晩過ごすということがあった*8。その頃、ぼく自身のバランスが崩れに崩れていることを自覚していたぼくは、何かにつけひとりで散歩に行ったりしていたのだけど、その夜も「TSUTAYAに行きがてら、ちょっとファミレスでコーヒーでも飲んでくるよ」と言ったぼくに、Cが「またひとりになりたいの?」と、ちょっと嫌味を込めて言われ、そのときは聞き流したのだけれど、外に出てフツフツと湧き上がるものがり、そのまま帰らなかった。この時期ぐらいからだろうか、じぶんのなかのモヤモヤした思いを募らせていったのは。
 ただ、その翌週だかに、大阪市が主催する「子育てパパの語り場」(2ヶ月に一度ぐらい開かれていて、大阪市の各区で開かれていて遠いのに、五部林を連れて、毎回のように参加していたが、去年の12月で終わってしまった)という集まりに行って、その頃の育児と、Cへの不満のような思いのたけを話したら、他の参加者(父親)によると、どの家庭も父親・夫という立場は同じようなものらしくて、当事者が言う「ともかく我慢しかない」という結論は妙に納得がいって、スッキリしたりもしたけれど、そのときももちろん「父親になるのが怖い」という思いだけは話せずにいて、そのことを初めて誰かに話したのは、その「子育てパパの語り場」で出会った臨床心理士さんが行っていた「父親インタビュー」に参加した5月で、インタビューの目的は、父親の育児参加の仕方や、母親のそれに比べ、なかなか表に出ることにない父親の育児の悩みにはどのようなものがあるのかを調査するものであったのにも関わらず、質問が「父親になったと思ったときはどんなときですか?」とか「父親になるにあたりどんなことを思っていましたか?」というようなものであったこともあって、ぼくは担当のSさんに向かって、上記に書いたような「じぶん殺し」などについても「父親になるのが怖い」という話もしたように覚えている。
 でも、Cにこういうことを話すことはなく、それは以前、「またひとりになりたいの?」と嫌味を込めて言われたときのショックが残っているからかもしれないし、どうせ言ってもわかってもらえない、子育てに関して言えば、ぼくがまだ仕事をしており、Cが育児休業中だったときは、もちろん、ぼくよりも、彼女の方がずっと五部林と関わっていて、そうであるのに、ぼくが「しんどい」「疲れた」と直接言い出せる勇気はなかった。
 それから、去年の8月にぼくが仕事を辞め、家事と育児を主に担当する「主夫」となり、Cが外へ働き出すという生活が始まって、毎日、慣れない育児にほんとうにクタクタになっていく。そして、家でひとり育児をしていると、ふつうの言語コミュニケーションが成り立つことが少ないので、誰でもいいからふつうに話すことを求めるようになるらしく、その点ではぼくもまさにそうで、いつしかはコンビニの店員さんに「ありがとうございます」と言われ「いいえ、こちらこそ」と話しただけで、とても喜びのように思えたのだけど、聞いた話によると、そして、たいてい主婦は、仕事から帰って来た夫に対し、その日あったことを相手が聞いていようがいまいが、ヅラヅラと話し続けるようになるのだそうだが、ぼくの場合は、逆で、日中、ほんとうにクタクタで、Cが帰ってくると、疲れて何も話す気になれなかった。ひとりでぼんやりとしたいという欲求の方が大きく、去年の9月だったか10月だったか、五部林を和室で寝かしつけた後、ぼくがリビングでテレビを見ていると、その日の日記を書きたいCから「テレビが点いていると集中して書けないから、別室に行ってほしい」と言われ、別室に行くと、また「サボっている」と言われると思っていたぼくは、内心、とても喜んで別室に行き、そしてそのまま朝まで寝るということがあり、その日以来、ぼくは、Cが帰って来て、五部林を寝かしつけ、夕食をいっしょにとった後は、別室で過ごしているのだけど、Cにしてみれば、夕食時にでも、ぼくにその日一日五部林といっしょに過ごした報告をしてほしいらしく、それは当然の希望なのだけど、ぼくは、ほんとに話す気力がなく、話すとしても五部林以外のことを話したかったけれど、さして話題があるわけでもなく、Cと何度か言い争いになったことがあった。
 こうしてみると、Cと(困っていることや悩んでいることなどの内面のことについて)話さなくなったのは、五部林が生まれてきてからであり、そして、決定的だったのは、ぼくが主夫になってからということになる。でも、こうして書いてみてわかってきたのだけど、ほんとうに話したいことは、「父親になることが怖い」(これには「父親になるのが嫌だ」という思いも含まれている)ということであって、それは、Cの妊娠がわかってから、2年以上経つし、それをCに話すことは、とても勇気がいる。さらには、「父親とはどういう存在なのか、どう振る舞えばいいのかわからない」ということも、ぼくを大きく悩ませていることのひとつで、その問いは、実はあってないようなもので、もちろん、父親の数だけその父親の方法あるとは思うのだけど、ぼくの問いはそれでは納得がいかない。言い換えれば、「父親になることが怖い」、「父親になるのが嫌だ」と思っているぼくにとっては、今、うまくことばにならないけれど、<あるべき父親像>があって、ぼくはそういう「父親になることが怖い」、「父親になるのが嫌だ」と思っているということかもしれず、ただ、うまくことばにならない<あるべき父親像>というのは、ぼくの場合、幼いころ、父母が離婚したこともあって、尊敬する目指すべき存在にしろ、反面教師にしろ、具体的な存在としての手本がないために、それは、外部イメージに頼るしかなく、父親以前の、<あるべき大人>、<あるべき男>になるために、学校の先生をそれにあてがったり、また小説、漫画、テレビドラマ、映画などの「物語」の<大人>の生き方・考え方を手本にしようとしてきたし、それを今、しつつもあり、今日見た映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』のトム・ハンクス演じる、妻にはもちろん、息子にあれほどまでに思いを遺した父親であったり、元旦の夜にひとりになるために大阪に戻って、TSUTAYAで借りて、連日見た倉本聰脚本『北の国から 98 時代 [DVD]』『北の国から 2002 遺言 [DVD]』の、田中邦衛演じる黒板五郎であったり、そのどちらの作品もとくにそんなことを意識して借りたわけでもないのだけど、ぼくは「父とは何か?」ということを問い、「善き父-息子関係」を見出そうと必死なのかもしれない。
 そして、今、そういう言い方、「父親になることが怖い」、「父親になるのが嫌だ」ではなく、「父とは何か?」、「善き父-息子関係」がどういうものかわからずに戸惑っている、という言い方なら、Cに話せるかもしれない、と思った。

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 でも、もともともっと根本的なことでいうと、果たして、ぼくは、Cに、彼女に、ぼくの抱えている、この厄介な『なぜこんな毎日を送っているのかわからない・じぶんで納得がいかない』=「<あるべき自分>というものがあって、その状態ではないことに不満を募らせている」、それが、ずっとぼくを悩ませている、ということについて、きちんと語ったことがあるかと考えると、間接的にはあったかもしれないが、ほとんどないように思える。
 でも、あるとすれば、Cに出会って、彼女と付き合い始めて少し経った頃に、今と同じような「うつ」になり(その原因は、いろいろとあるにしても、総論的にはやはり『なぜこんな毎日を送っているのかわからない・じぶんで納得がいかない』ということだった)、Cを相当戸惑わせたことがあって、でも、きっとそのときは、なるべく正直に話せたように思う。そして、その後は、Cと知り合ったときに就いていた仕事を辞め、昨日も書いたように、ぼくは「いまのじぶんには『あえて』この仕事をやってみることが、きっとなにかをつかむきっかけになる」と信じて、別の仕事に就き、別のじぶんの留め方を身に付けられたと自覚し、深い「うつ」になることはなかったので、話す必要もなかったのだけれど、五部林の誕生、ぼくの仕事の退職、そして主夫生活というふたつ(それは、五部林の誕生があったからこそ仕事を辞めようと思ったので、大きく言えばひとつの)の出来事が、現実の生活を変え、ぼくが克服したと思っていたから大丈夫だと思っていたけれど、『なぜこんな毎日を送っているのかわからない・じぶんで納得がいかない』という「うつ」を誘発させる思いを、また呼び起こしてしまったのだろう。

 昨日の日手紙で、ぼくは20代までに唾棄していた社会のさまざまなことを『あえて』することが、「『現実のじぶんに折り合いが付けられない』ことを克服するツール」だと思い、30代のぼくの「この約10年間のモチベーションだった」と書き、それをたまたま、この「うつ」期に読んだ宇野常寛ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)』のなかで、著者は「否定」している、と書いた。
 もちろん、著者は直接的にぼくが個人的に抱えている厄介な自意識を「否定」しているわけではなく、本書のなかで、「ゼロ年代」における日本社会における人々のあり方を、「物語」の変遷を用いて辿り、そして、ここに生きるぼくたちが、より気分良く(?)生き続けるため仕方を論じているのだけど、ぼくはまさに「ゼロ年代」を同時代を生きてきたひとりとして、「否定」、いや、「まだ足りない」と、そんなふうなメッセージだと受け取った。
 2000年、ぼくはいろいろと遠回りしたせいもあって24才になっていた大学の卒業論文で、加藤典洋敗戦後論 (ちくま文庫)』について論ずるなかで、その作業こそが、大人になる(悪だとしか思えていない社会に出る)ことを尻ごんでいたぼくに、その背中を押してくれたもので、それがぼくの『あえて』ツールの始まりだったのだけれど、やっぱり、20代の数年は、いったん社会に踏み出したとはいえ、まだ自意識ばかりが前面に出る、『ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)』の言い方をかりれば「『~である/~ではない』という自己像(キャラクター)の承認」を求める傾向、社会の内側に完全に呑みこまれることを恐れる傾向が強かった、それで、いつも社会の側との折り合いがうまくつかず、ただ、でもそれを以前のように社会や外部のせいにすることはせず、ぼく自身の内に原因を求めたけれど、でもその内への悪循環が、ときに「うつ」として現れたりはした。
 そして、30代になり、ぼくは苦しかったけれど、自意識を下げ、『あえて』ツールをより強くし、承認を「~である/~ではない(状態)から、「~する/~した(行為)」によって求めるものとして、なんとかやってこれたとは思う。
 けれど、そこでの承認(評価)だけでは、ぼくは満足せず、こうして、別次元のじぶんの留め方を探り出したわけだけれども、うまくいっていない。
 それは、ぼくの『あえて』ツールは、本書の言い方に沿えば、それは「セカイ系」の論理(「『あえてベタに』生きればいいという思考停止」あるいは「『安全に痛い』自己反省」)、であり、「決断主義」(「価値の相対比が徹底された世のなかだからこそあえて(自己反省を内在して免罪された)選択された超越性」)の域を出ていない、と。
 そこで、宇野は、この「セカイ系」や「決断主義」をどう乗り越えていけば良いのかという問いに対して(これが、本書の核でもあるのだけど)、例えば、

 ひとつの時代に向き合うとき、人間は「こんな世の中が間違っている」とすべてを否定して背を向けるか、「流れに乗ればいい」と身をまかせてしまうかという両極端な反応を撮りやすい。だが、それはともに愚かな選択だ。どんな状況にも利用し得る可能性と巧妙な罠がセットで隠されているように、あらゆる時代にも同じことが言える。世界に「いい」も「悪い」もない。私たちに必要なのは、それぞれの時代とその想像力が孕む長所と短所、コストとベネフィットを見極め、巧く利用することで次のものへと変えていくことなのだ。(P.155)

 現代では、超越性を公共性が保証することはありえない。「生きる意味」も「承認欲求」すべてはひとりひとりが、コミュニケーションを重ね試行錯誤を繰り返し、共同体を獲得する(あるいは移動する)ことで備求していくしかない。それは一見、冷たい世の中に見えるかもしれない。何が正しいのか、何に価値があるのか、もはや歴史も国家も教えてくれない。でもその代わり、私たちは自由な世の中を手に入れた。(中略)私たちはいつでも好きな神様を信じ、いつでも見限ることができる。自分で考え、試行錯誤を続けるための環境は、むしろ整いつつあると言えるだろう。(略)
 そして、そんな世の中で人々が陥りがちな決断主義=誤配のない小さな物語の暴力に依存しない方法を、ゼロ年代の想像力は模索してきたのだ。「終わり」を見つめながら一瞬のつながりの中に超越性を見出し、複数の物語を移動する――次の時代を担う想像力は、たぶんここから始まっていくのだろう。(P.388)

 ここで宇野が述べていることをぼくは、まだうまく噛みこめていない。そして、「それぞれの時代とその想像力が孕む長所と短所、コストとベネフィットを見極め、巧く利用することで次のものへと変えていく」、「一瞬のつながりの中に超越性を見出し、複数の物語を移動する」ことが、具体的にどのように、ぼくの生活のなかに組み込んでいけるのかもわからない。
 でも、ここで指摘されている味わいをどこかで目にしたことがあると思って思いだすと、それは、加藤典洋敗戦後論』(ちくま文庫版)の解説に内田樹が寄せていた以下の文章だった。

敗戦後論』をめぐる加藤典洋高橋哲哉の論争の真の賭け金は「正しさは正しいか?」という問いに集約できるだろうと私は思う。
 加藤は、この論争を通じて、「正義」は原理の問題ではなく、現場の問題であるという考えをあきらかにしていった。ことばを換えていえば、この世界にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏怖の念を維持することによってである。
 「悪から善をつくるべきであり、それ以外に方法はない」*9ということばに加藤が託していたのはそういうことではないかと私は解釈している。

 こうしてみると、ぼくは、やはり、この30代という時間を、残念だけれど、「自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せること」を相変わらず続けてしまっていたように思う。それは『あえて』~する、という方法をとってしまうことによって、「自己反省を内在して免罪」したうえに「思考停止」を伴った。
 ただ、ぼくは、そうすることで精一杯だった。
 『あえて』という前置きをおくことによって、じぶん自身を守ろうとすることでしか、ぼくは、ぼくの納得のいかない現実から、それでも前に進むために、そうするのが最善の方法だと思えた。そして、そのツールもある程度は役に立ったように思う。けれど、この数年間、そのツールに慣れ親しみ、埋没してしまったのかもしれない。ぼくは、この30代において、その『あえて』の<向こう側>にあるものも見えたようにも思ったけれど、そう思えてからの一歩は、確かに踏み出さずに、その見えた気がした状態で、それを深め、じぶんのものにする前に「思考停止」してしまっていたことは確かなようだ。
 こちらの文法が通じない圧倒的他者=我が子を前にしてみると、見えたように思った何かは、ほとんど役に立たないことがわかり、ガラガラと崩れたのが、この1年半という時間だったのだと思う(主夫になってからはとくに)。
 その『あえて』ツールが役立たない日々が訪れると、ぼくは、『なぜこんな毎日を送っているのかわからない・じぶんで納得がいかない』と思い始め、また「ひとりの時間」を求め始め、何か別のじぶんの可能性があるように思え、苦しんでいるのが今だと思う。
 じぶんが納得するかどうかが重要なのではなくて、他の誰でもなく、じぶん自身がこうして選んだ日常のなかで、素直に、また、謙虚に迷い、逡巡し、それを誰かに話し、共有してもらうことが必要だった。

 去年の8月に仕事を辞め、何かじぶんのなかに毎日を過ごす納得がいかないものが胸のうちにゴロゴロとあり、それに気づくたびに「なぜ仕事を辞めてしまったんだろう?」という疑問が湧き、そして「仕事を辞めていなければ、今頃、こんなにじぶんの毎日に納得がいくとかいかないとか考えずに、決まったことをしていれば対価としての給料ももらえ、『仕事をしている』というだけで他者(いちばんの他者は妻であるCであるし、そして息子・五部林)からは、とりあえず認められるだろうに」と思い続けてきた。
 けれど、今、思うのは、というより、そう思うしか仕方がないのだけど、仕事を続けていれば、きっと、こうして気づいた、ぼくが20代後半に選んだ『あえて』ツールが、すでに役立たなくなっているということに気づくことはなかっただろうし、ぼくが退職を決断したときに、このことがきちんと頭でわかっていたわけではもちろんなかったけれど、たとえばその理由として、ある人に話していたのは、「ぼくは、この職場、この仕事が嫌になったわけではないけれど、このままこの仕事を続けていくと、今もすでにそうであるように、この職場、この仕事のなかでは、いろんなことがわかっているし、ひと通りの仕事ができるようになったから、すごく偉そうに、ものを知ったようなふりをして生きていってしまうような気がする。ただでさえ、ぼくは偉そうで生意気なのに、それで40代、50代、60代となったときに、どうしようもない『井の中の蛙人間』ができてしまうような気がしてこわいから、辞めることもものすごくこわいけど、それを止めるには、今、この時点で辞めるしかないように思う。そして、もちろんこのタイミングを選んだのは、『毎朝はやく家を出て、毎晩遅く帰ってくる、仕事は事務員だと言っているが、実際のところ、どんな仕事をしているのかわからない』父親になりたくない、つまりは、息子が大きくなったときに、『お父さんの仕事は~やで』と言うか言わないかは別として、彼にも見える仕事をしていたかったということがある」というようなことで、ぼんやりとした<このままいくとヤバイ>という嗅覚、第六感のようなものだけはあって、それは、この先まだどうなるかはまったくわからないし、今の時点だけみれば、「うつ」になって<今がかなりヤバイ>ということには変わりないのだけど、この状況で、家族に迷惑をかけていることを棚上げして言わせてもらえば、仕事を辞めるという決断は、間違っていなかったのだと思いたい。

 ぼくが「ひとりの時間」を求めがちなのも、「納得」してからでないと動けないのも、それが性癖だと言ってしまえばそれまでだけど、じぶんの内なる領域(「無垢と純良」)を守りたいという思い、自らが安全な場所だと思える場所に留まりたいという保身にならないように思う。それは、もちろん、誰しもある常識的な防衛反応というか考え方だとは思うけれど、その与えられた状況下で「歩き出す」ことが、ぼくにはなかなかできない。

 ぼくは、倫理的であることを善しとしたいと思ってきたし、これからもそうありたいと思っている。
 ぼくが、「『井の中の蛙人間』ができてしまうような気がしてこわい」のも、「『父とは何か?』ということを問い、『善き父-息子関係』を見出そう」とするのも、「彼(息子・五部林)にも見える仕事をしていた」いうのもそのためだと言える。
 この倫理的である、ということについていえば、宇野は、『ゼロ年代の想像力』のなかで「安全に痛い自己反省」から「倫理を立ち上げようと考えたとき、私たちは終わりのない試行錯誤を要求される」しかなく、「ほんとうの痛み」という「当事者性への自覚もまた、(必然的に「安全に痛い」ものに回収されうる)自己反省という回路のバリエーションにすぎない、とも考えられる。私たちはやはり、必然的に『安全に痛い』ものに転化する自己反省そのものが機能しないという現実を受け入れ、その上でどう対象への距離を測り、倫理を考えていくか、が重要なのだ」と述べている。
 ぼく自身の「安全に痛い」倫理性は、「終わりのない試行錯誤」=「うつ」、に現れているのだと言ってもいいと思う。この自己反省は、ほんとうに「機能しない」ことが、ぼくの「うつ」が証明している(『自己反省ゲームの機能不全』)。
 そして、その倫理的であることが、ぼく自身を縛り、そして、Cや五部林にも迷惑をかけているとなれば、話が真逆になっている。でもだからといって「流れに身を任せる」のではなく、なにか、別の方法を見つけなければと思う。

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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敗戦後論 (ちくま文庫)

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 さて、きょうは、この辺りで終わる。
 …あぁ、またもう朝の6時だ。何も食べないまま、今夜も11時間ぐらい、この文章を書いていた。
 
 きょうの午後にはCと五部林が、Cの実家から戻ってくる予定。
 Cは、体調が悪い(風邪なのか、咳が止まらないらしい)と言っていたけれど、どうするつもりなんだろう。
 どちらにしても、きょう、Cが帰ってくることを前提に、部屋を片付けたり、いろいろとしておかなければならないことがたくさんある。
 「ひとりでいる」ことは、とても「安全」なのだ、とここでも思う。
 そして、その安全な場所から書いている、この文章は「自己反省ゲーム」に他ならないのかもしれない。でも、これは、今のぼくにとって必要な行為だ(と思いたい)。

*1:http://www.youtube.com/watch?v=UlzrIgacADU

*2:息子は、軽い卵アレルギーがあり、少しずつ慣らしていってる最中なので、まだケーキを食べられない

*3:結局、ぼくが事前に3か所の保育所に予約の電話はしたけれど、当日出かけることができずにCを怒らせ、あるいは失望させた

*4:この辺りからぼくは「父親になるのが怖い」とずーっと、ずーっと(実は、父親になって1年半以上経った今も)思い始めていたりして、そのことを素直に母になる、子を持つ歓びをいっぱいにして(もちろん、不安もありながらだろう)毎日過ごしているCに対して話せるわけもなく、今になって思うと、この頃からぼくの「隠しごと」、Cに対して「話せないことがある」毎日は始まったようにも思える

*5:実際には、五部林の誕生が予定日よりも3週間近く早かったので、肌着数枚とそれを洗濯時に干す小さな連結型ハンガーぐらいしか用意しておらず、ほとんどは出産後に揃えたり、借りたり、譲ってもらったりした

*6:当時の不登校に至ったきっかけも、後から考えてみると高校生活に対し、『なぜこんな毎日を送っているのかわからない・じぶんで納得がいかない』ことだと言える

*7:http://d.hatena.ne.jp/subekaraku/20111208#p1

*8:https://www.facebook.com/subekaraku/posts/276553379085942 その頃は、今のように、「うつ」にならず、まだその程度の「ストライキ」済んでいたのだったのだけど、思い返すと、ここが今の状態の出発点だった

*9:敗戦後論』の冒頭に掲げられた ロバート・P・ウォーレン『ストーカー』(ストルガツキー)題辞「きみは悪から善をつくるべきだ/それ以外に方法がないのだから」より