〒カワチ日手紙〒- 外 -

「あえて」以降の、生きる仕方の試みの記録。「父」像、「家族」像への試み。文中に出てくるCは妻で、五部林は息子です。

「MUSH UP(マッシュアップ)」という生きる仕方

 昨日、「平成サブカルお母さん考~わかるヤツだけわかればいい~」(「MAMApicks」・筆者/ワシノミカ)というコラムを読んで、「サブカル世代が親になる経験」またはその「処方箋」について、少し書いた。
 さっそくそのコラムで触れられている、渋谷直角カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』を手に入れて、読んだ。

平成サブカルお母さん考 ~わかるヤツだけわかればいい~ : MAMApicks -子育て・育児・教育ニュース&コラムサイト-

 奥付を見て驚いたけど、すでに3刷。江森丈晃の装丁もいい。扶桑社から出たとは思えない(失礼…)ほどの良本(太田出版とか、イーストプレスっぽい)。
 表題作のほか、『ダウンタウン以外の芸人を基本認めていないお笑いマニアの楽園』、『空の写真とバンプオブチキンの歌詞ばかりアップするブロガーの恋』、『口の上手い売れっ子ライター/編集者に仕事も女もぜんぶ持ってかれる漫画(MUSH UP)』、『テレビブロスを読む女の25年』などの作品が収録。
 この題名見ただけで、「サブカルクソ野郎」に対する作者のすばらしい批評眼、というか、「意地悪さ」が滲み出ている。
 表題作『カフェでよくかかっている~』では、(サブカル分野で評価が高い)有名になることを夢見る三十五才のカーミィーこと、藤島美津華の日々が描かれるが、夢破れた後の後日談がすごい「意地悪」。マガジンハウス刊の「ku:nel(クウネル)」をパロディした雑誌(「kuinol(クイノル)」)記事をほんとに「ku:nel(クウネル)」によくある体裁で、「ミトン(鍋つかみ)」(!)専門店を開いているシングルマザー・藤島美津華のインタビュー記事として描く。そのインタビュー内で、彼女は、原発問題についても語っちゃう(ほんとに、こういう人、トーキョーの西の端とか、カナガワの海沿いとかにいそう)。

ku:nel (クウネル) 2013年 09月号 [雑誌]

ku:nel (クウネル) 2013年 09月号 [雑誌]

 ぼくは、ここに描かれている人・こと・会話が、びっくりするぐらい、ぼく自身のなかにまだある「何か」に引っかかっていることに気づく。
 他人事(ひとごと)として、笑えなかった。それは、ぼくが「サブカルクソ野郎」のひとりだった(はたして過去形か?)からに他ならない。
 ちなみに、ぼくが思う「サブカルクソ野郎」というのは、一見じぶんの意見や思いを言ってるように見せかけて、「○○(サブカル有名人や外国人批評家・哲学者など)は、××って言ってるけど、やっぱり、それに対して△△(また別のサブカル有名人や日本人の若手批評家など)は、□□って、批判してるじゃない? ただ、やっぱり、そうはいっても△△は○○の☆☆の部分を理解してないっていうか、読み込めてないっていうか、〓〓主義を逸してないんだよねー」とか「○○(サブカル有名人や外国人批評家・哲学者など)が××(誰も読まないサブカル雑誌)で、□□(誰も見ない映画で、実は言ってる本人も見ていない!)について、☆☆って言ってたけど、それって、■■(さらに誰も見ていない映画、さらにこれまた実は本人も見ていない!)では、すでに語られていることであって、今更ねー」とかいう感じで、ちっともじぶんの意見とかを語らず、目の前に落ちているゴミを拾わずに、反原発とか言っちゃう人のことなのだけど、それでも、作者は「意地悪さ」以外の、「サブカルクソ野郎」に対する「希望」のようなものを、どの作品にも残している。
 とくに『口の上手い売れっ子ライター~』は、他の作品にはない、意地悪さからの救い、絶望から希望への路みたいなもの、そのヒントを。
 「あとがき」において、作者は、この作品を描いたきっかけについて、以下のように述べている。

 MUSH UP(マッシュアップ*1という、音楽のジャンルというか手法があって、(中略)この大雑把なブレンド具合が僕は大好きで、こういうの、漫画でもできないかな、と思ったのです。
 この漫画のかわいらしい感じのキャラクターは、マガジンハウスの雑誌『オリーブ』でよく描かれていた、イラストレーターの仲世朝子さんっぽいテイスト。ポップでオシャレ的な世界観を打ち出しつつ、彼らが現実と向き合えば向き合うほど線が劇画っぽく増えていき、最終的には土田世紀先生の『編集王』とマッシュアップする。オシャレな感じと泥臭い感じがドンドン表裏一体となっていく。ドンドンその境界線が曖昧になっていく。そんなことを思いつき、大好きな仲世朝子さん、土田世紀先生へのオマージュもできるし、こいつはいい! こんなのあんま、ないんじゃないか?! と。

 それで、納得がいった。絶望から希望への路が描かれている理由。
 土田世紀好きだというだけで、土田世紀好きなぼくは、納得がいった。細かな説明は不要だ。
 作者は、「サブカルクソ野郎」になるしかなかった人々のことを愛している。

編集王 1 あしたのジョー (BIG SPIRITS COMICS)

編集王 1 あしたのジョー (BIG SPIRITS COMICS)

 さらに、作者は、この作品の最後で、宮澤賢治の詩を引用している。

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

宮澤賢治『春と修羅』第二集「三八四 告別」より)

 もう、土田世紀×宮澤賢治とくれば、ほんとうに、(ぼくには)何も説明は要らない。
 この作品は、世の「サブカルクソ野郎」(だった人)への応援歌だ。

宮沢賢治全集〈1〉 (ちくま文庫)

宮沢賢治全集〈1〉 (ちくま文庫)

 「平成サブカルお母さん考~わかるヤツだけわかればいい~」というコラムのなかで、ワシノミカさんは、90年代にサブカルにかぶれた「サブカル少女」「サブカル少年」が、いま、続々と子をもつ親になってきており、サブカルは「大人になったら卒業しなきゃいけないものだと思っていたのだが」、「サブカルお母さん」(「サブカルお父さん」)が現れてきて、Eテレの番組は、もはや『「サブカルお母さん(お父さん)」ホイホイ』になっていると指摘しており、ぼくも、息子といっしょにEテレの番組を見ていて(いや、ひとりで見るときも多い)、まさにその通りだと納得するのだけど、そんなサブカルお母さん・お父さんは、ずっと“端っこだけを歩いてきた人間”だったため、(結婚し、)親になる「ベタ」な日常生活というか、人間関係に慣れていないため、「こじらす」ことが多い(ぼくも含め)。
 ただ、ぼくが、思うに、(じぶん自身のことでもあるので照れくさいけれど、)当時、サブカルにかぶれた人というのは、簡単に(乱暴に)言うと、「アツい気持ちを持っていながらも、それを表明することが照れくさい・恥ずかしい・プライドがジャマして」「ベタ」なメインカルチャー*2に対して距離を保っていた、保つしかなかったという側面が少なからずある(と思う)。
 けれど、その「メタ」(←→「ベタ」)な嗜好は、年齢を重ねるほどに悪質化していく。「ベタ」に戻れなくなる。何もじぶんの意見を持たなくて良いし、今の時代は、ネットなどが普及して「一億総ツッコミ時代 (星海社新書 24)」(by槙田雄司)となり、じぶんの意見を持たずともツッコんでいるだけで、「じぶんは考えている」と錯覚できる時代だから、「ベタ」(ボケ)でいる方が難しい。
 その悪質さ加減に「意地悪」し、且つ、救いの手を差し伸べているのが、この渋谷直角『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』という作品だと思う。

 ワシノミカさんは、コラムの最後をこう結んでいる。(昨日も引用したけれど)

(90年代から20年経ち、結婚し母になった私は ※引用者註)カルチャーだけで言えば完全にメインストリームの人になっている。
※ちなみに、息子(2歳)の今一番好きなものはEXILEである。
ベタなことをベタに楽しめたほうが人生は楽しいのかもしれない。
わかってはいるけれど、人生のうち“斜に構えた時間”が長すぎて、どうしても「メタ」から「ベタ」におりられない。
いや、無理して取り繕うこともない。
陰と陽を両手に抱え、「メタ」と「ベタ」を自由自在に行き来したらいい。
そして、「サブカルお母さん」たちに大事なことは、「サブカルは40で鬱になる」(吉田豪・談)といわれている40代を無事にやり過ごし、余生を気ままに過ごすことであろう。
世の中に潜伏しているすべての「サブカルお母さん」の未来に光あれ!

 たぶん、渋谷直角がこの作品で言いたかったのは、ワシノさんの言う「陰と陽を両手に抱え、『メタ』と『ベタ』を自由自在に行き来したらいい」、その「フットワーク」(もしくは「MUSH UP(マッシュアップ)」という生きる仕方)につながると思う。
 「メタ」と「ベタ」の自由自在な行き来は、ぼくのような「こじらせ系」の人間には、実は、相当難しい。
 Eテレの番組でも、またネット社会のはびこりでも明らかなように、「サブカルお母さん・お父さん」でも、それなりに生きていける時代になった。
 でも、ひとりの人の配偶者となり、ひとりの子の親となった今、ぼくは、その「フットワーク」「MUSH UP(マッシュアップ)」を身につけたいと思っているし、だからこそ、相当「ベタ」で且つ「メタ」な専業主夫という道を選んだのだと思う。

*1:2つ以上の曲から片方はボーカルトラック、もう片方は伴奏トラックを取り出してそれらをもともとあった曲のようにミックスし重ねて一つにした音楽の手法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97

*2:何が「メイン」なのかは、もうよくわからないけど、当時で言うなら、B'zとか、B'zとかをカラオケで歌っちゃえる人とか、かな。