〒カワチ日手紙〒- 外 -

「あえて」以降の、生きる仕方の試みの記録。「父」像、「家族」像への試み。文中に出てくるCは妻で、五部林は息子です。

単純に、そして、偶然に

 五月半ば、Tさんから、facebookを通じて、豪田トモ(企画・監督・撮影)さんの映画『うまれる』上映会が行われることを知り、すぐに申し込んだ。それから約二ヶ月、心待ちにしていた作品。
 きょうも、暑い陽射しの照りつけるなか、愛車・リトルカブに跨がって、走ること約30分。高槻市総合市民交流センターに着いたのは、開場十五分前。JR高槻駅に入線する列車を見ながら、軽く食事をして、汗が引くのを待って、入場。すでに多くの人たちが席に座っていた。
 まず、上映会を主催する地域ひといきの代表・小林さんの挨拶。「本日は、雨の降るなかお越しいただき…」と始められたときには、「え? いやっちゅうほど太陽が照りつけてましたけど」と思ったけど、原稿を読んでおられる姿を見て、一回目の上映会(二十四日)は、雨が降っていたのかもしれず、「あぁ、緊張してはるんかなー」と。
 三才以上の子どもたちがいっしょに観られるスペースがあったり、聴覚・視覚障害児・者も観られる配慮があったりと、とても素敵な雰囲気のなか、開演。
 事前に映画のHPや予告編を見ていたぼくは、だいたい内容の予想はついていたものの、先日、ならシネマテークの上映会で観た、是枝裕和監督『誰も知らない』を観たとき*1と同様、やはり息子・五部林が2年前に生まれ、自身が父親になっていることが、この種の「出産(・育児)ドキュメント」を観たとき、じぶんにどう影響しているか、そして、息子が妻のお腹のなかにいることがわかった二〇一〇年の冬から、この約三年間の日々を振り返る、見直すきっかけになればと思っていた。


映画「うまれる」予告編 - YouTube

 作品には、新しい生命の誕生に対して「単純」には喜べない四組の家族が登場する。どのような家族なのか、どのような事情がその家族にあるのか、詳細は、映画HP、または実際に作品を観ていただきたいのだが、ぼくがやはりいちばん共感を抱いて追って観たのは、伴(ばん)夫婦で、とくに夫の真和さんの、実際に父親になるまでの心境、その変化だった。「結婚もするとは思わなかったし、父親になるとも思っていなかった」と語る真和さんの語り口は、まったくそのまま、ぼくの二年前と同じものだった。
 四組の家族の物語は、どれも切実だが、誰もが勁(つよ)く、自らが生きることに、家族が生きることに、新しい生命が生まれる・生まれた・生まれない・死んでしまったことに正面から立ち向かう姿が見えた。その「単純」とも言える、けれどもそういう単純なことがなかなかできないぼくは、とても感動した。
 そして、やはり、二年前、健康に五部林が生まれ、2年間、大きな病気をすることもなく元気に育っている五部林がいる身としては、四組の家族の置かれた状況に、もしじぶんが置かれていたとしたらと思うと、もうその状況だけで涙が出てきそうだった。4組の家族、誰もに「思慕」のようなものを感じた。

 最近、ぼくが思うのは、子どもを生み、親になり、育てる、という経験は、子どもがいる・いないに関わらず、誰もが誰かから生まれ、誰かに育てられて今があることを思えば、宗教的な意味ではなくとも、今までは無関心だった街ですれ違う人に「共感」を覚えるというか、「思慕」の念を抱いてしまうというか、大げさにいえば「人類皆兄弟」的な連帯感みたいなものを感じるようになってしまう。敵・味方ではなくなってしまう。

 話が逸れたけれど、そんなことを思いながら観た最後の伴(ばん)夫婦の出産シーンは、ただ、単純に、もうそれだけで大きく心を動かされ、ぼくも、グシュグシュと泣いた。生まれるということは、こうも単純で、だからこそ、ことばなく、感動する。
 そして、映像を見ると、撮影者が、被写体である家族それぞれときちんと関係性をつくってカメラをまわしていることがわかる。それもとても心地良かった。

 ただ、苦言を言わせてもらうならば、その「生まれる・生きることこそ単純に素晴らしい」と思えるこの作品のなかで、その感動を冷めさせてしまったのが、(ぼくにとっては)過剰とも言える演出で、まず、冒頭のCG(これが最初に映し出されたとき、本気でもう席を立とうかと思ったぐらいシラけた)、中盤のアニメ、さらに、ときどき挿入される監督の作詞(作詩?)らしい歌など、随所に「感動押しつけ装置」が、facebookのタイムラインによく上がってくる「感動したらシェア」のような感じで、盛り込まれていることが残念だった(唯一、エンドロールで流れる、つるの剛士の歌は、きちんと映画にハマっていたように思う)。
 さらに、冒頭、その他各所で挟まれる、白い背景の前での産婦人科の医師や専門家の(説明や提言のような)インタビューシーンも、ぼくには不要だった。映像だけで作品の意図を提示し、感想は広く観客に委ねられることを紡いできた日本ドキュメンタリー映画というよりは、欧米のドキュメンタリーを観ているようで、日本ドキュメンタリー映画が好きなぼくとしては、とても残念だった。
 最後に、冒頭に紹介される「胎内記憶」というテーマが、作品の芯として、最後まで通っていないこと。「子どもは親を選んで生まれてきた」ということを示す意図なのは理解できるけれど、とって付けたような印象を受けた。配布されたアンケート内の質問に「あなたはこの作品を見て『胎内記憶』についてどう感じましたか?」というような質問があったけれど、ぼくはそれまで「胎内記憶」について、「かなり肯定的」であったのにも関わらず、この作品では「親の癒し装置」のようなものとして使われていたように思えてしまい、「おおむね肯定的」という項目に丸を付けてしまった。
 ぼくは、今、息子がいることで、親であることで、この映画『うまれる』について、その「単純さ」が素晴らしいと思えたけれど、もし、息子が生まれる前に、この作品を、ひとつのドキュメンタリー映画として観たならば、かなりがっかりしたように思う。
 ただ、現実には、今、息子がいて、父親でもあるぼくは、「単純に」この作品に感動したのだから、それで良いのだけれど。

 上映会を主催してくださった地域ひといきのみなさん、そして、きょうの上映会を紹介してくださったTさん、この作品に出会えたことは、やはり、息子が妻のお腹のなかに生命を宿して、そしてきょうまでの日々を思い起こす、とてもいい機会になりました。
 上映会後、急いで息子を保育所に迎えに行ったとき、彼をギュッと抱きしめました。「ありがとう」と思いました。息子がぼくや妻を「選んでくれた」とは決して思いませんが、「単純に」「偶然に」ぼくや妻と過ごしてくれている彼を愛おしく思えました。
 そして、仕事帰り、きょうの夜の回の上映を観に行った妻が帰ってきたときも、「単純に」「偶然に」ぼくと出会い、ぼくと家族になってくれ、さらに息子を産んでくれたこと、いっしょに育てていってくれてることを感謝しました。気持ち悪がられるので「ギュッと抱きしめ」はしなかったけれど。

うまれる かけがえのない、あなたへ

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